2004年5月に始めたブログ・・・ついにその年の年末を迎えた・・・そして書き続けている。当初、ブログと言うことばが気に止まり、ある方に何なのか?と聞いたところから全てが始まった。
自分で経験してみようと無料版で始めたのだが、確かに自分には面白く、ストレスの吐口にもなり、楽しく書いていたのは事実だ。結局、その楽しさは今でも変わらないような気がする。だからこそ今も続いているのだろう。
今回、2004年の12月まで記事の修復が終わった。この月の記事数は65記事、内容は、いつもと変わらず、食べ物の話題から、仕事の話題、ちょっとした身の回りのことなどんど、自分の1日の一部を書き連ねているって感じ。
2004年の暮れ・・・何があったかと簡単に振り返ってみると、目立つのは仕事関係のつぶやきというか嘆きというかぼやきだ。例えばこんな感じ・・・16年前も今も同じようなことが課題として残っているなということがようく分かる・・・進歩ないこの現実に唖然とする--;
多くは、組織としての振る舞いというか、個人と組織の関係、あるいはGoing Concernとしてのビジョンの必要性とか、企業組織としての基本を自分なりに悩んでいた当時のことが書かれている。
この状況は今もほぼ変わらないというのが今回さらさらっと目を通して振り返った時の感想。まあ、研究員の構成として基本は上がいなくなって、ある程度若手が入ってきてはいるものの、当時の若手が年齢を重ね中堅になったただけなところもあり、新陳代謝というか、組織の年齢構成が歪になっているというか、そういうところは以前よりも悪くなっていると思うところだ。
世の高齢社会を考えれば、一会社組織の中もそれを投影したものにならざるを得ないところはあるが、それでもと思う。役に立たなくなったら、さっさと自ら身を引くということも必要だろう。
最近、改めて思うのは、やはり自分のできないところは見えないという点だそれなりの立場になれば、全社的な視点からプロジェクト開拓をする必要があるが、これが結構難しい。特にベテランになると、知らず知らずの間に自分の分かる範囲に話を限定しようとするから質が悪い。仕舞いには、自分を正当化して、自分以外は全て否定的に判断してしまう。そうじゃないだろうというところを理解するのは、年齢を重ねれば重ねるほど難しくなる。
自分の仕事の幅と組織としての仕事の幅は等しくないのは誰でも分かるだろうが、プロジェクト開拓などの時に、どうしても自分のできる範囲内で判断してしまう・・・結果、仕事がないってことになる。そりゃあたり前田のクラッカー。
みんな真面目だから?、評価されたいから?だから、クライアントの要望に応じた最適な体制をとり、プロジェクトに当たらなければいけないのに、そうしないから組織としての間口が狭くなる。縮小再生産・・・自分たちの行動がもたらした結果なのだ。それを反転させるのは大変だ。
ここ数年は財務は良いがアウトプットの内容をよくよく振り返ってみると、将来に対して決して楽観できないののではないか?キュレーションビジネスで稼げる範囲は限られている。そこにさらに付加価値をつけるにはどうしたらいいか・・・そこが問われているということだと思う。時間は少ない。
当時の記事をざざっと読み返しながら、今、それに対して頭が反応したことをつらつら書いたけど、進歩ないなあ〜という自分に気づいたりする。
さて、12月の記事の振り返りのつもりだったが、想定外のないようになってしまった。
本来の目的に沿って、今少し、当時を振り返ってみると・・・
- 12月5日は夏日だった。29日と大晦日には雪が降っている。
- 食事の話題は、三友さんの巨大カキフライ、喜寿司さんの特上ちらし、金田丸のカンパチ刺し、並木藪の鴨なん、美舟のお好み焼き、焼きそば、など
- KTNさんが初めて登場
- 浅草羽子板市とか、人形町の餅つき、クリスマスのない人形町商店街と門松
- この時からローマ人の物語が話題に出ているが、完結する前で結構盛り上がっていた時期ではないかと思う。自分も何冊か購入したが、まだ全てを読み終えてはいない。
大体こんなところか。それから今年の春にお邪魔した京都のサケカフェ・ハンナのハンナさんの存在を知ったのはこの記事だった。
今はコメントは消えているが、当時、ハンナさんから結構辛口のコメントが届いて、それからの関係だった。そして今年、念願のお店に行けたのでした。
長いことやっているとこういうこともたまにはあるよって感じ。
以上、12月の記事でした。次は2005年の1月になります。