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Quality Economic Analyses Produces Winning Markets

梅棹忠夫:情報産業論

日本で始まったといわれる情報(化)社会論、情報経済論・・・そのきっかけを作った論文が、梅棹忠夫さんの「情報産業論」だ。初出は1963年1月の『放送朝日』誌上であったそうである。

この論文はその後の梅棹さんの論考とともに『情報の文明学』で読める。

で、今回、改めて読んでみた。

4122033985 情報の文明学
梅棹 忠夫
中央公論新社 1999-04


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梅棹さんは、最初に「なんらかの情報を組織的に提供する産業を、情報産業とよぶ」と定義し、議論を始める。

情報産業という視点で世の中を眺めていくと、農業にしろ、工業にしろ、サービス業にしろ、どのような産業形態を見ても、なんらかの側面で情報(産業)化している部分があるということが例を引きながら述べられている。

また情報を扱う商売が産業として大きく発展するためにはそれを実現する技術の発達を待たなければならなかったとし、それを工業と対比して、次のように述べている。

工業的生産においても、ながい原始的手工業の時代があり、そしてマニュファクチュアの時代があったうえで、近代的産業化が進行したように、情報産業においても、ながい産業化前史が存在したのである。近代にいたるまでの宗教や教育の組織は、まさに情報産業におけるマニュファクチュアであった。情報産業における産業化はもちろん、いうまでもなく印刷および電波などの、情報の記録、伝達の技術的発展を待たなければならなかったのである。(P33より)

そして情報産業はまだ発展の緒についたばかりで、その技術的発展を考えたとき、この産業の今後の可能性の大きさを指摘している。このときは、「情報の記録、伝達の技術」としているけど、今ならばそこに「加工」も加えられるのではなかろうか。さらに最近はSecond Lifeというバーチャル空間まで出てきて、そこで経済活動も行なわれているそうだから、創造というキーワードも加わりそうだ。

つまり今後の情報産業、情報経済、情報社会の動向を考えようとするならば、それに関連する技術がどのように発展していくのか、それが社会にどのように受け入れられるか、社会からどのように技術の発展に影響を与えるかを注意深く見守る必要があるということであろう。

さらに文明史的に情報産業の発達を位置づけ、議論する際に出てきたのが、内胚葉、中胚葉、外胚葉という動物発生学の視点である。

梅棹さんは、内胚葉(=消化器官系の機能)を農業、中胚葉(=筋肉を中心とする諸器官)を工業(製造業)、外肺葉(=脳神経系、感覚器官)を情報産業(精神作業)と例え、第一次産業第二次産業第三次産業にはうまく区分できない情報産業の位置づけを分かりやすく解説している。

そして外肺葉が大きく発達しても中胚葉、内胚葉がなくならないように、産業においても、製造業が大きく発展しても、農業はなくならなず、基礎条件として存続したと述べ、今後、情報産業が大きく発展しても製造業はなくなることはないとしている(冷静に考えれば当然だが)。

一方で、農業や製造業が情報化している、つまり産業の情報化が進んでいるということはいえるだろう。つまり外肺葉の発展は、情報の産業化(これも古い言い回しだ)を進めるとともに、中胚葉、内胚葉の情報化も進めるという2面性を持っているといえる。

よって社会を分析するときは、産業の情報化の側面を問題としているのか、情報の産業化を問題としているのかをはっきりさせながら議論することが必要だということになろうか。

つまり、今後、情報通信産業が国内経済をけん引していくような中核産業になるという側面と、その発達によって他産業が生産性を向上させ、さらに成長し、経済をけん引する側面があるということになる。

情報通信業界に身を置いていると、ついつい明日にでも情報通信産業が国の中核産業になる、あるいはならねばならないというような議論になりがちだが、それはまだ遠い先(少なくとも世代をまたがったような将来)の話だと考えるのが現実的ではないかと思う。

話が横道にそれました。さて、情報産業論では、さらに、外肺葉の時代はそれに見合った経済学が必要だとし、まずエンゲル係数に変わるものの必要性を述べ、別項では、情報化指数の必要性まで言及している。それらの試みは今までも存在したが、いまだ一般には広まっていない。

それから情報の価格決定にまで考察し、情報の時代にはそれに見合った理論が必要であることを述べ「お布施の理論」を展開した。情報の価格は、コストによって決まるものではなく、情報提供者と受け手の社会的、経済的な「格付け」で決まるというものである。よって既存の経済学ではそのような分析は不可能だと述べている。

この点については、別の本(ネットワーク経済の法則)が経済学を使って情報財の価格設定が可能であることが述べられており、そちらも読んで、梅棹さんの指摘がどのように位置づけられるのか、検討してみる必要があるだろう。

4872803779 「ネットワーク経済」の法則―アトム型産業からビット型産業へ…変革期を生き抜く72の指針
カール シャピロ ハル・R. バリアン Carl Shapiro
IDGコミュニケーションズ 1999-06


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ネットワーク経済の法則においても、「情報財の価格づけは消費者が認める価値に対応したものでなければならない。生産コストが基準ではない」と指摘されている。

梅棹さんの「情報産業論」は今、読んでもちっとも古さは感じない。昨今のブロードバンドや携帯電話の発達、Web2.0の広がりなどを見ていると、読みながら、梅棹さんの洞察力に関心してしまうと同時に、情報経済、情報産業、情報社会の出現はこれからが本格化する時期だということを再認識する。

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