日本橋濱町Weblog(日々酔亭)

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浅草松風:昔見聞きしたいろいろ

以下に書くことは、ある掲示板に書き込んだ文書を転載するものです。

僕がまだ松風によく呑みに行っていたころ、お店の人やお客さんから聞いたことだ。酔っ払いながら聞いていたから正確ではないところもあるし、松風の話題だけではないけど、松風の思い出としてここに載せておこうと思う。

以下、始まり。

その昔、松風を始めたころは、経営者にとって松風はあくまで副業でしかなかったそうな。

恐らく、居酒屋「松風」があの場所に登場したのは戦前の話。電話番号を見れば分かりますね。

当時は、3本ルールもなく、皆好きなだけ呑めたそうだ。そしてつまみもなし。お通しが5種類でてくるだけ。ただし、お通しのお替りは自由。

つまみを置かなかったのは、酒呑みはつまみなんか食わねえという時代だったから。ほら、時代劇で居酒屋のシーンが出てくると、たいていお銚子とお通しの入った小さい小鉢だけでしょ。あんな感じでみんな呑んでいたらしい。まあ、経済的に貧しかったというのもあるのだろうけれど。

つまみを出すようになったのは、戦中だか、敗戦後だかのころ。戦中は天麩羅だか何かを売っていた時期があったとかなかったとか。酒も配給だし、売るものがなかったので、出してみようかということになったらしい。それで結構、出るもんだから、それからつまみを少し出すようになったんだって。

昔の松風を知っている人がよく言うのは、その昔はつまみ持ち込みOKだったということ。僕が聞いたのは、近くの魚屋で刺し身を買って、それを持ち込んでつまみにしていたという話。でも今はできない。今、出来るのはお酒を飲めない人が松風に来たときには、外でジュース買ってきてもいいということだった。

3本ルールが出来たのは、店が混むようになって常連さんがなかなか入れないような状況になってしまったとき。さらに会員制というのを作った。

松風としては、常連さんがゆっくり呑めないというのも常連さんに対して失礼だし、混みすぎると、ただ酒を暖めてだすだけということで、全妙の燗加減を楽しんでもらえないからルールと会員制を作ったらしい。

最近ではバブルのころは混みかたがすごかったらしい。

松風が今の建物になったのは、昭和48年。オイルショックにちょっと引っ掛かったと言っていました。

今、松風は真澄の店みたいに言われるけど、それは偶然。まあ、開店当時から真澄をおいていたのだけれど、当時は真澄は一番の安酒として置かれていた。その他は灘の酒の有名どころ。それでみんなお金がないから、真澄を呑んだわけ。

そのうち真澄も味が良くなって、今となっては、真澄も長野の地酒を代表する蔵になったけど、当時は全然そんなじゃなかったらしい。やはり7号酵母を発明したのが大きかったのだろうか。

それでお客さんたちも、所得が上がって、飲む酒も高くなるかといえばやはり呑むのは真澄ということらしい。

松風で出している真澄の本醸造は、吟醸並に米を磨いているらしい(確かにラベルには吟醸酒とあったような)。だから、蔵としては燗してもらいたくないそうで、でもあれ、燗で呑むの結構好きだな。

吟醸酒は、冷してのまなきゃと思っている人はそれは違う。必ずしもそうではない。ものによっては少し燗して呑むと、吟醸香がたっていい按配になる(これは友達に教えてもらった)。そういう楽しみ方もあるということ。

ちなみに言うと、まずい日本酒にあたったときは、キンキンに冷やして呑むことをお進めします。それでも駄目なら、ちゅうちょなく料理酒へ(これは「げんごろう」(今はない)の斉藤さんに教えてもらった)。

松風としては本当はお客さんには、燗で呑んでもらいたいのだそうだ。

それからお酒の呑み方とかは「あ〜い〜」の燗付けおやじさんがいろいろと教えてくれた。例えば、お猪口2つ使って、呑み比べてみなさいとか。

以上、浅草松風のいろいろでした。

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