いやぁ〜、びっくりした・・・最初から経済学が悪者にされているではないか!・・・市場原理主義を利用したショック・ドクトリン。今、世界は、一部の権力者、金持ちによる支配が拡大しているが、その彼らが取る手法がショック・ドクトリンでそれは経済学のシカゴ学派のミルトン・フリードマンの考え方に基づいているとなっている。
シカゴ学派はそもそも市場メカニズムを重視する立場で、中でもミルトン・フリードマンの考え方は強硬派だったのではないか。それに賛同するかは人それぞれだろう。自分は賛同しない方だが、否定することはない。それはケインズ経済学にも長所と限界があるように、当然、市場メカニズムを重視するシカゴの考え方、フリードマンの考え方にも長所と限界があると考えるからだ。
本書は、ムック本で、NHK100分de名著で取り上げる「ショック・ドクトリン」を理解するための番組用のテキストとして堤未果氏によって書かれたものだ。6月の月曜日に1回25分で4回=100分で解説される。4回は以下の通り。
- 第1回 「ショック・ドクトリン」の誕生
- 第2回 国際機関というプレーヤー・中露での「ショック療法」
- 第3回 戦争ショック・ドクトリン 株式会社化する国家と新植民地主義
- 第4回 日本、そして民衆の「ショック・ドクトリン」
本書で解説しているショック・ドクトリンに基づいた政策遂行過程については確かにそうだと思い当たる節もあり、肯定的に受けいれられるのだが、シカゴ学派が槍玉に上がっているのはどうも違和感があって、読んでみた。
今後、ナオミ・クラインの「ショック・ドクトリン」*1やフリードマンの「資本主義と自由」*2を読んで考えないと行けないが、今回は、100de名著のテキストの範囲内で考えてみた。
最近の政策決定過程を見ていると、確かにショック(=「衝撃と恐怖」)が起きた時に、その時ちょうど議論になっている、あるいはなりそうな重要な政策課題がほとんど議論されずに、法案成立となっている場合があるのではないか。災害や事件・事故などのショックに関する記事で誌面は埋め尽くされ、そういう本来我々がチェックすべき重要な課題はベタ記事で載る程度、TVのニュースでの扱いも最小限になる。そういうことが多くないだろうか。
こうなるのは、マスコミが商業主義に行き過ぎているためだと思っていたが、もう一つ、深く掘り下げるとこのショック・ドクトリンに行き当たるということなのだろう。つまり、マスコミが商業主義に走り、その時々の売り上げ最大化を考えれば、地味な重要課題より、大衆の関心が集まるショックに多くの紙面を割くことになっていくがその背景にはショック・ドクトリンという権力者等による大きな支配の構造が働いているということだ。
1980年代以降の民営化を中心とした市場メカニズムを利用した経済政策の推進は、それまでの財政赤字や公的部門の非効率性など大きな政府の反省として実施されたものだ。当時、それは新自由主義としてシカゴ学派だけではなく、多くの経済学者によって支持されていたと思う。市場メカニズムとセーフティネットは車の両輪となり、経済を新しい均衡点へ導くはずが、自由市場における大企業の成長、適切なセーフティネットを構築することの難しさ、労働組合*3やマスコミ(ジャーナリズム)などカウンターパワーの弱体化が進み、結果として大企業とそれにつるむ権力者による弱肉強食の世の中を導いてしまったということだ。
このように理解すると、思い出されるのは、下記の記事で取り上げられている経済学者の生き様だ。彼の生き様は、自分の満足を最大化するためのショック・ドクトリンに乗った政策立案そのものだったことが改めて分かる。
以上から、現状の社会構造やそれによる社会問題、社会課題は、シカゴ学派の考え方が出発点となった市場メカニズム偏重の経済運営の帰結という整理になる。しかし、シカゴ学派の考え方そのものが悪いのではなく、確かにきっかけは作ったが、こうにまでなったのは企業経営や政策運営の適切性をチェックできなくなってしまった労働組合やマスコミの弱体化、大衆の無関心が大きいのではないか。偏重させてしまったのは、そこをチェックするメカニズムが弱体化されてしまったためで、それはカウンターパワーの弱体化によるものだ。
そこに気づいたのがナオミ・クラインで「ショック・ドクトリン」として世に問うたということになる。また、4回目の放送で紹介されるのであろうが、そこに書いてある、行きすぎた市場メカニズムの反省として、「シカゴ学派的ショック・ドクトリンに立ち向かう」方法として、「一旦立ち止まり、目の前のことだけでなく過去に遡って学び、考える」ことの大切さと「市場メカニズムではなく、多様性や自然が持つ循環のメカニズムを大切にし、自らその一部として経済活動を営む暮らし」として紹介されている。それは多様なステークホルダーを経済システム内(市場メカニズムを含む)に維持し、チェック機構として機能させることを志向するものだろう。
ここでまた思い出されるのが以下の記事だ。宇沢弘文氏の追及した経済学ー社会的共通資本というものと重ならないだろうか。実は、宇沢氏は、シカゴ大学でフリードマンと一緒だった時期があり、その直後に日本に帰国したという経緯がある。フリードマンの経済学と宇沢氏の社会的共通資本・・・なぜあの時、日本に帰ってきたのか空想は尽きない。
「ショック・ドクトリン」を知ることにより、我々は市場メカニズムを否定するのではなく、それといかに付き合うべきかを再度考えるところに来ているということだと思う。社会システムの再構築が必要とされているのではなかろうか。