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松本清張著『小説 帝銀事件』:「NHKスペシャル未解決事件File.09 松本清張と帝銀事件」を見て読んでみた

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小説帝銀事件を読むきっかけはこの2本のNHKスペシャルだった。第1部は松本清張の小説帝銀事件が描かれるプロセスを再現したものだ。そこでは清張やその他の関係者が違う犯人の可能性に気づき、肉薄するもそこまで辿り着けなかった模様が描かれている。

www.nhk-ondemand.jp

第2部はその後、歴史に埋もれていた新しい証拠が発掘され、それにより何が明らかになったかが語られ、事件の真相に迫っている。

www.nhk-ondemand.jp

新しい証拠などをみると、真の犯人が誰かは分からないが、少なくとも平沢氏が犯人であると断定できないということになるだろう。第1部のドラマの中では、冤罪を生み出す構造、時の権力者(この場合はGHQ)、マスコミ、世論に対してその罪の深さを指摘する。あの事件で、清張は、権力者(情報の出所)の主観がマスメディア(現代だとSNS)の主観となり、それが読者の主観となり、最後に「世論」の主観となり、犯人を生み出していく状況、ステークホルダー各々の責任の重さを指摘する。そしてドラマの中で清張は結論を書ききれなかったとして終わっている。

それを見た時、原作を読んでみたいと思い、今回、初めて読んでみた。確かに書ききれてなかった。「しかし、とに角、個人的なおれの力ではどうにもならない」という忸怩たる思いの吐露が最後に描かれている。

The writing style was old and hard to read.

文体が古く、読むのが大変だった

Nスペを第1部と第2部をみてしまった後でその著書を読むというのは何とも妙な感じだった。結論はその後分かったことも踏まえて理解しているわけだから、今更、何に注目して読むか?という自分にどう納得させるかがまず最初の障壁だった。それでも読んでいくわけだが、結局はあの時点で著者松本清張は何を書きたかったか?ということを確認するために読むということで自分を納得させた。

いろいろなことが書いてあるけど、注目するのは1点か2点だろう。そうと考えると、やはり冤罪が起こるプロセスと戦後の闇(GHQの思惑とそれに引きづられる国家とジャーナリズム)に注目して読むことに自然となる。

構成は

  • 第1部 犯行と犯人捜査を中心とした記述
  • 第2部 検察の見方(陳述)を紹介
  • 第3部 弁護側の見方の紹介と論説委員仁科(清張)の見方

となっている。

で、どうだったかというと、第1部での最初の逮捕シーンは騙し討ちのような対応だったし、面通しを複数回やるとその度に似ているところを探すようになるので、徐々に似ているように思い込むようになるよな(ある種の洗脳)とか、第2部の検察の見立てでは、容疑者はコルサコフ症状という病気でそもそもその自白が信用できないし、他人の記憶も信用できないということでこんな適当な情報の中でもある状況の中では犯人になってしまうという恐ろしさを考えてしまう。第3部では弁護側の見立てや仁科の見方が出てきて、最後に軍関係の線が一気に語られているが、それも容疑者を絞り込むまでは書けていない。それで最後の「しかし、とに角、個人的なおれの力ではどうにもならない」という言葉で終わりを迎える。今更ながら物的証拠の大切さがよく理解できる。

この小説は、「小説」だが、限りなくノンフィクションに近い内容だろう。それが最後のところで判決は出ているものの犯人が分からなくなっているという非常に中途半端な終わり方になっている。番組でも描かれている通り、社会派の推理小説家としての松本清張にとって、それが後の日本の黒い霧や昭和史発掘へのスタートラインと位置付けられている。だから読後感のいい小説ではない。

追記:帝銀事件については、真犯人を挙げられなかったのは当時の状況で致し方ないかもしれないが、平沢氏を裁判にかける必要はなかったのではないか。現状で新たに分かった事実を踏まえて再審するという道はないのだろうかというのは強く思うところ。

追記の追記:日本社会が平沢氏の再審を認めないということは、この社会にはいまだに戦後すぐのあの頃の心性が残っていることになりはしないか。もしそうならば同じようなことがまた繰り返される可能性を否定できないことになる。

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