昔、第二次大戦後1950年代にかけて行動科学革命というものがあった。現在、行動科学というと心理学や社会心理学の一分野と位置付けられることが多いが、当時の革命は社会科学全体に影響をもたらすものであった。その中でも社会心理学等のコミュニケーション研究に大きな影響を与えたのはいうまでもない。
- 作者: 犬田充
- 出版社/メーカー: 中央経済社
- 発売日: 2001/05
- メディア: 単行本
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その当時のことは上記の書籍に詳しい。
それまで人間の行動を科学的に研究することは難しいことと考えられていた。経済学の分野ではアダムスミス以来の研究の蓄積があったが、それでも経済活動(社会)を対象とする分析の難しさは他の社会科学とそう変わらなかったであろう。
それは人間の意識を考慮しなければならないことからくることであった*1。個人や社会の意識を考慮するということは、分析対象としてどう組み込むかということの以前に、そこから自分の主観をいかに取り払うかということであり、研究手続きが大切になってくる。行動科学革命のひとつの貢献は社会科学に自然科学の研究手続きを導入し、観察可能な、つまり客観的で、検証可能な事実に基づき議論を組み立てるという方法論を問題提起したことであろう。
経済学、特に実証系の研究者もその影響下*2にあり、行動科学というキーワードは社会科学のあらゆる分野に影響を与えた言葉であった。
自分が最初に行動科学という言葉に接したのは大学の1年の時の社会科学研究入門という授業でのことであった。当時のノートをもとに少々振り返ってみよう。
行動科学出現の背景
行動科学が世に問われるようになった背景には当時の大戦が大きく影響している。
言うまでもないが、人間が人間に対して関心を持つのは、古くて新しいことであり、太古の昔から存在したことである。たとえば哲学の一分野として経済学は昔から研究されていたけれど、一つの転機が訪れたのは19世紀末ころからであった。より広く人間、人間社会の科学的な研究に関心がもたれるようになり、それは人間を分析対象とすることの難しさに対する挑戦の始まりであった。
何が困難であったかというと、方法論的困難さが上げられるであろう。
- 人間を分析対象にすることが難しい
- 対象の複雑性
最初は、観察者の主観をいかに排除するかという問題(人間を客観的に見ることができないないし難しいということ)であり、2つ目は被観察者の行動は、時間、状況により結果が変わり、それをコントロールするような実験ができないということである(現在では実験心理学や実験経済学など社会科学でも実験がおこなわれるようになってきた)。
科学的研究方法
このような困難さを克服するために当時科学的研究法というものが提起された。それは以下の項目からなる。
- 手続きの公開(検証可能であること)
- 定義・規定(恣意性の排除)
- データに基づく(客観的であること)
- 再現可能性(一過性のものは駄目)
- 接近法(組織的な方法)
このような項目からなる方法論が提起され、社会科学に導入されていくことになる。現在では、それが厳密に実行されているかどうかは別として、どれもみな当たり前のこととして承知していることだろう。
このような科学的方法論に基づいた調査・研究が実施されることにより、事実からの発見(されたもの)が知見として積み上げられ、それが組織化され、理論としてまとめられる。その理論を応用して、政策(実践)が実行されることになる(政策科学)。
理論の政策への応用は現実の試験を受けることになり、そこで適否が判断され、元に戻っていくという手続きが繰り返され、理論の精緻化が進む。今はやりのPDCAサイクルの一種だ。
研究手続きのモデル
再度整理すると、まず何らかの問題意識があり、それから
- 研究課題の設定
- 仮説の設定
- データを使った仮設の検証
- 検証データの分析(さらなる真理の探究)
- 事実の発見(から一般化)
- 理論(モデル)の導出
- 政策への応用(さらなる課題へ最初に戻る)
ここでいうゴールとして設定してある政策への応用は言いかえれば、理論(モデル)に基づいた効果分析や将来予測*3をすることであり、ここの要請にこたえられて初めて一つのプロセスとしての研究が一応の結果を出せたといえるだろう*4。
社会科学はこのように科学的手続きを確立することによって、科学としての基盤を築き、社会に貢献するようになった。
これからの研究(仕事)で何が大切か
当時を振り返り、現在から将来を見通してみたとき何が見えるだろうか。おそらく当時の社会科学の状況と同じように現在の社会科学は曲がり角に来ているのだということだ。
現在はビックデータの時代と言われ、今までにない詳細なデータが入手できる社会ができつつある。また分析する側も、コンピュータや統計ソフトの発達、アンケート調査などの低廉化、普及により誰でもデータを使った実証研究ができる環境にいる。これは今までの調査研究の延長線上での話だ。さらに大きなインパクトは、ビックデータを分析するソフトウェアが数多く開発されており、それは今後も続き、より高機能のものが出てくるであろうという点だ。
ビックデータの特徴は、現在の因果関係を中心に仮説を組み立て、それを検証し、世の中の改善に役立てていくタイプのアプローチから、因果関係は不明だが、相関関係を重視し、世の中の出来事を事前に予測することによって貢献しようというものだ。このような分析を誰でもができるようになってしまう*5。
このような時代に社会科学はどうあるべきか?社会科学者のレゾンデートルは何に求めるべきであろうか。社会科学の方法論を応用してアウトプットを出すことを仕事しているわれわれの存在価値は今後何に求めるべきか。
ビックデータを分析するソフトウェアを十分に活用することができれば、とりあえずはそれを応用していくことを考えることだろう。では武器として直接持っていない研究者はどこに存在価値を求めるべきか。
まさにそれを今、突き付けられているように思う*6。
*1:経済学はそこを独立した個人という前提で乗り越えたとも言えるか?
*2:大学院時代のT先生は確かに行動科学としての経済学ということを言われていた
*3:現在はここの部分は客を連れてこいということになっているらいし。予測ができるなら、実際に客を連れてこれるだろうと・・・言うことだ。それが予測の正しさを証明することだと言われたらそうせざるを得ないのかもしれないが、そこは考えさせられる。それを逆手に取るということもあるが・・・それはそれで新たな対応が必要だ。
*4:「予測なんて難しいことはできない」という業界人がいるが、それは自分で自分のことを「不適格者だ」と言っているようなものだ。
*5:多くの社会科学は理論の前提として多くの仮定を置く、ビックデータ分析ではそれらはすべてシステムの中に包含され、ブラックボックス化し、どういう仕組みか分からないけど、専門家が何時間もかけて出す答えを短時間で出してしまう。
*6:ここでは自分の仕事は科学的知見を発見する営みの一部で、科学を通して世の中に貢献していると考えているが、そうでないということであれば、ここでの議論は何の意味もないことになる。