母親から聞いたところでは、自分は1962年(昭和37年)8月22日の夜8時ごろ生まれたらしい。だから今の時間(夜10時)には生まれていたと想像される。
生まれた時は病弱で、それは小学校4年ぐらいまで続いたのではなかったか。小学校2年生では水疱瘡で2週間ぐらい小学校を休んだ記憶があり、かなりひどく、水疱瘡の痕は一生消えないとかかりつけの医者に言われて、悩んだこともあった。風邪は毎月のようにひいていたと思う。そんな病弱な体が変わったのは、5年6年の時の担任の先生がよく運動をさせる先生でそのおかげで体力、抵抗力がついたのではないかと思わないでもない。
中学、高校はひたすら野球だった*1。高校野球自体が絶頂に向かっていたころだったと思う。だからその後も野球は自分の中で大きな部分を占めていた。特に高校での野球の経験は、その恩師からのいろいろな言葉は今も心に焼き付いている。ものの考え方の基礎を作る部分で多大な影響を受けたと思う。今の野球は、大谷以外はほとんど興味ないが、自分がやってきた野球は、自分への影響という点では大きかった。
中学はそれなりの成績だったこともあり、高校もそれなりの高校に通う。その後、大学には、浪人までして入ったが、レベル的には平均ぐらい?ってところの大学だった。でも親は合格と知った時喜んでくれたね。
高校の、受験を前提にした勉強はお世辞にも楽しいとは思えなかった。だからその後のことを考えることなく、学業を疎かにし、勉強という点では失敗した3年間だった。大したことない大学に入ったが、受験から解放された大学学部の勉強は楽しかった。一番勉強したと思う。本も読んだね。その勢いで大学院に行ったが、ここでまた失敗した。勉強(いや、大学院だから研究か)しなかった。今でも一番の後悔は大学院だが、中でも博士課程の3年間だ。後で、研究環境がいかに大切かを知ることになったが、後悔先に立たずというのはまさしくこのことだ。
でも運よく今の研究所に入った。そして今までいることになるわけだが、最初は5年ぐらいで辞めてアカデミアの世界に戻るつもりだった。それが60歳までいることになったのは、そこでの仕事(≒研究)が楽しかったからだが、途中で間違えた。言うなれば3回目の失敗をしたわけだ。
40歳過ぎごろからマネジメントに軸足を置きすぎたのだった。これは最近改めて気づいたのだが、もっと研究に軸足を残しながら、マネジメントも経験すべきだったと思う。マネジメントに寄せすぎたことで、研究が疎かになった。いつの間にか、外から共同研究の声がかからなくなったのだが、気づいた時は後の祭りだ。具体的にはアウトプットが圧倒的に少なかった。外との交流も減っていた。内弁慶になっていたのかもしれない。これでは声が掛からなくなるのも当然といえば当然。後悔先に立たずとはよく言ったものだ。
今更だが、やはりもっと研究を突き詰めるべきだった*2。つまり学位は取得しておくべきだったろうということだ。これは自分個人としては今からでもやり直しはできて、完結はできないかもしれないが、遅くはないと思っている。だからそれを考えつつ今後を考えているわけだが、その道はまさしく、全ての道はローマに通ずって感じだ。いろいろな行き方があるということは分かるが、ではその中でどの道を取るべきかはまだ決められないでいる。
こんな感じで、60歳の夜を迎えたわけだが、正直、自分の親や祖父母の時の60歳の印象と今の自分を比較すると精神的にも肉体的にも60歳って感じではないなあというのが正直なところ。ならばお前はどういう存在なのだと言われると・・・まだこれから何かできると思っている自分がいたりする。だからこれからに悩むことになるということでもある*3。
以上、60年を振り返りつつ、これからの20年でもう一花咲かせようとしているいい年こいたおっちゃんがここにいるのでした。
これからもよろしくお願いします。