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6月の第3日曜日は父の日だった・・・今更ながら自分の父親のことを思い出してみる

この18日は父の日ということで、自分の父親のことを考えてみた。

すでに他界している父だが、実は思い出してみると、彼の生前、特に就職前のことをほとんど知らなかったことに今更ながら思い至る。

母親は生活時間の中で接している割合が圧倒的に多く、その中で自分の幼少期や自分の両親や家族のことなど自分に語ってくれたが、父親はほとんどそういうことがなかった。

以下、父親関係の事柄を本人やその他の人から聞いたことを取り混ぜて書き出してみる。

View of Maruyama from Unrinji Temple, where my grandparents' graves are located

祖父母のお墓がある雲林寺から丸山を望む

思い出してみると、生まれがどこか知らない。父親(自分からは祖父、以下、祖父)が貝瀬という地区の出身でそれなりの家柄だったが、なんらかの理由で家を飛び出し、その後は苦労の多かった人生だったらしい。祖父は、東京電力が発足する前の電力会社に勤めていて、労働運動に参加したことで大変だったらしい。祖母は地元の商家の出身で、お産婆さんを90歳近くまでやっていた。すごい仕事熱心な祖母だった。

The last house in Kitakaruizawa where my father lived. It is now his own separate house.

父親が最後に住んでいた北軽井沢の家。今は自分の別宅になっている

父親が生まれた時は、今井の発電所の社宅に住んでいたらしい。晩年、北軽に引っ越してから自分で行ってみたらしく、「小さくてびっくりした」と言っていた。小中学校はどこを出たか聞いたことがなかった。高校は長野のいずれかの高校を卒業したということだったと思う。大学は、日大の工学部を卒業した。大磯に住んでいた頃の家にあった書架には大学時代の教科書が何冊か並んでいた。当然、技術屋だった。就職先は東京電力。神奈川支店と神奈川県内の変電所が勤務先だった。

学生時代は、戦中と戦後の混乱期だったと思う。その学生時代、混乱期に群馬か長野で暮らしている親や兄弟のために闇米を手に入れ、マントの下に隠して夜汽車で帰ったという話は本人から聞いた。自分自身、空腹で倒れたこともあったらしい。そう言えば、戦中はどこで暮らしていたとかも聞いたことがない。恐らく東京だろうけど・・・結婚してからは巣鴨?板橋?あたりに住んでいた。ちなみに自分が生まれた時は板橋に家があった。

思い出して書けるのはこの程度だ。父親から直接聞いたことは少ない。

今となっては知る術はなく、今更知らなくてもいいことだが、なんとなく寂しいものがある。

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