まさかこういう形で福岡さんの著作を読むことになるとは思わなかった*1。もう10年以上前、当時話題になった「生物と無生物のあいだ」を読んでいたのだがその時非常に興味深く読んだことは今でも覚えている。その時感じたことをまとめた記事が以下残されている。
この記事の最後で、「本書(生物と無生物の間)は生物、生命について書かれたものだが、この中で書かれていることを社会や経済活動に応用して考えたら、何が見えてくるのだろうか・・・と思った。」とあるが、まさしく今回、それを考えることになったのだった。
そもそもの端緒は、下記のNTTと京都大学の共同研究にある。
これ自体は、「人の活動がサイバー空間上に大きく展開する未来社会に向けて、テクノロジーの進化と人が調和する新たな世界観を構築し、これをもとにした人の生きがいや倫理、社会制度の枠組みを提案することを通じて、人々が安心して新たなテクノロジーを活用できる豊かな未来を目指してゆきます。」(報道発表資料より)ということで、ヒトのDigital Twin Computingが実現した時に備えましょうということなのだが、実は、この検討は2030年以降の将来の話ではなく、今の日本経済に必要な視点でもあるということなのだと読んでいて気付かされることになった。
本書は、福岡さんの動的平衡論を西田幾太郎の絶対矛盾的自己同一という哲学の文脈に当てはめ生命が何者であるかを理解しようという試みだ。エントロピーが増大することに対し、生命はどのようにそれを乗り越えているのか。そこではピュシスとロゴスという2つのものの見方が示され、論理的な理解と直感としての理解の両者の関係が明らかにされる。
章立ては以下の通り。
- プロローグ 福岡伸一
- ダイヤローグ 福岡伸一、西田哲学を読む 池田善昭×福岡伸一
- 第一章 西田哲学の森に足を踏み入れる
- 第二章 西田哲学の森に深く分け入る
- 第三章 西田の「逆限定」と格闘する
- 福岡ー池田 往復メール(一部)
- 第四章 福岡伸一、西田哲学を読む
- 第五章 動的平衡と絶対矛盾的自己同一の時間論
- 第六章 西田哲学をいまに活かす
- 理論編 ピュシスの側からみた動的平衡 福岡伸一
- エピローグ 池田善昭
- 旅の終わりに 池田善昭
- 新書化のためのあとがき 福岡伸一
以上の通り、大きくは6章立てになっていて、そこに理論編が加えてある。その他にプロローグやエピローグなど前後の文章が結構あり、それが読み解く上でヒントをくれたりする。
西田哲学の難解さは有名だが、その西田哲学に生物学・・・動的平衡*2 の視点で理解しようという試みであり、その理解のプロセスを二人の対談という形をとりながら追っている。
この中で、自分にとって印象的だったのは、年輪と歴史の関係あるいは年輪と環境との関係から「逆限定」の考えを理解するところだろうか。これは、「私」をどう捉えるかにつながることであり、西洋近代合理主義がもたらした種々の矛盾の解決をもたらす一つのものの見方を提供していると理解できるところだ。そしてその先には、「生命的な時間を持ち得ない今日の〈AI〉(外からのみ知る人工知能)を含めた人類の未来の有り様が、やがて徐に示されてくるに違いない。」(NTTと京大の検討はこの部分になると思う)とつながることになる。
西洋近代合理主義にはない、西田哲学の絶対矛盾的自己同一、つまり、「私」は「社会」に包まれ、「社会」を包むという関係・・・こういう理解に立つことがこれからは大切だという。私という存在は社会の一部であり、社会そのものであるという理解(ちょっと違うか?)。そういう理解の下、西洋的ものの見方を修正したらどうなるか。
話は変わるが、こういうものの見方は、最近よく言われるビジネスにおけるゲームチェンジを考える際のヒントにもなる。野球からサッカーへのゲームチェンジと言われるが、これは単純に昭和の野球と平成のサッカーということで例に挙げられているわけではなく、野球とサッカーのゲームのやり方そのものの違いが現代のビジネスの変容を表しているという例えだ。
そこではプレーヤーのあり方、チームプレーの内容が根本的に変わっていて、野球的チームプレーではなく、サッカー的チームプレーが必要だと。その違いの根底にあるのが、絶対矛盾的自己同一に基づく「私」という世界観の違いなのだというところだ。
そこが理解できないと、CXが必要なことにも気づかないだろうし、CXがなければDXも上手くいかず、競争力強化等さまざまな課題を解決することができないだろうということも気づかないだろう。