光秀、昨年の大河ドラマで光があたった戦国武将・・・なんて言うまでもないが、去年のドラマがなければおそらく手にすることはなかったと思う・・・この作品『光秀の定理』。
光秀ものは他にもいろいろ作品はあるが、その中からこの作品を選んだのは、おそらく「定理」という言葉に惹かれたからだ。自分の苦手意識の象徴とも言える数学で出てくる用語・・・定理。それを小説の題名に使うとはどういう内容なのだろうと読んでみた。
表紙、中表紙をめくるとチャールズ・ダーウィンの言葉として「最も強き者、最も賢い者が生き残るわけではない。唯一生き残る者、それは、変化できる者である。」という文章が目に入る。読了した後、これが著者が言いたかったことなのだということを改めて認識させられるわけだ。この小説は、歴史小説として光秀の生涯を描いたものでもないし、時代小説として光秀を描いたものでもない。
著者が言いたかったのは、「光秀や信長が生き残れなかったのは、変化できなかったからである」ということは時代の定理*1なのだということだ。では、生き残ったのは誰だったかというと、細川藤孝であり、豊臣秀吉であったということになる。
構成は以下の通り。
- 第一章 春宵
- 第二章 決闘
- 第三章 浄闇
- 第四章 択一
- 第五章 上洛
- 第六章 菜の花
上記6章からなっているが、主役は光秀ではない・・・と僕は思う。主役は、破戒僧の愚息と兵法者の新九郎で、そこに描かれている人の生き様。二人の出会いから、新九郎が兵法者として大成していく過程に光秀が要所要所で絡んでくる感じ。新九郎の成長(変化)過程と愚息の導き、それに対して、変われぬ定めを背負わされ、それを全うしようとした光秀という構図。
愚息と新九郎を中心に描くことによって、あの時代の光秀の生き様がどういうものであったかを浮かび上がらせようとする。そして最後になって、それを二人に語らせている。普通の歴史小説とは違う描き方・・・こうやって解釈してみると、単なる時代小説でもないと考えてしまう。
そして驚いたのは、最後の最後で、西田幾太郎の哲学の一端が示されていたところ。ちょっと長いが、引用する(本文386ページ)。
「この世は常に流転し、変化していくもの。今一時の世は、永劫の過去より未来へと果てもなく流れていく宇宙の、時の営みの、ほんの塵芥の一場面に過ぎませぬ。その意味において存在はしても、限りなく空、あるいは無。しかし前後の繋がりとして見れば、無限大の実・・・それらが表裏一体となって溶け合い、たがいに共振し、今というこの時と世界は成立しているものでござる。かりそめの一場面にいたずらに惑わされず、その背後にある連続する必然を見よ、と釈尊は申されておるのです。その意味において、人と浮世との関係も、また然り。元々は相対しているものではなく、溶け合い、互いに内包しているものでござる」
「元々は相対しているものではなく、溶け合い、互いに内包しているもの」という最後の一文は痺れさせる・・・絶対矛盾的自己同一、動的平衡の世界を語っているとしか思えないことを愚息に語らせている。そしてその直後に「そう、西田幾太郎がこの時代に生きていれば、泣きながら手を握ったであろう言葉を吐いた。」と描いていることからも著者が言いたかったのはつまりはそういうことだったのだ。
著者がどこで西田哲学に触れたか分からないが、この小説のモチーフとなっていることは確かなような気がする。自分も、最近、この辺りを彷徨っていたことを考えると、この本を手に取るのは、「連続する必然」であったのかと思ったりする。
いわゆる歴史小説、時代小説ではない作品だと読了して改めて思う次第だ。
*1:定理とは、定義、公理から論理的に導かれる事実。