大学時代、学部生、院生の9年間、何本のレポートや論文を出しただろうか。それは就職してからも続くのだが、いつも書くことについて自己嫌悪に陥る。このブログでもそうだが、自分の文章は冗長で読みづらいのだ(と自分では思っている)。
学生時代の悪癖
なんでそんな文章を書くようになったのかというと、その大きな原因は学生時代に遡る。
学生時代・・・それなりに学問は好きだったが、レポートは苦痛だった。どう苦痛だったかというと、レポートや論文の課題が出される時、必ず400字詰め原稿用紙◯◯枚分とか、◯万字以上とか、量の指定がある。そうすると我々は何を考えるかというと、提出するためにはまず量をクリアしなければいけないということの大変さだ。これがかなりのプレッシャーだ*1。これを単純にクリアしようとするので、同じ内容でも一文字でも多い文章にしょうとする*2。結果、冗長で読みづらい文章で満たされたレポートが出来上がる。
時間があれば、それから再度見直し、添削した文章にすればいいのだが、提出期日間際に出来上がるので、それをすることもなく提出する。読み易い文章を自分で考えることなく、そういう訓練をほとんど受けることなく学生時代を終了し、社会人になる。今、思い出すに、少なくとも量的な制限を加えない課題の出し方はできなかったのかと思う。内容の整ったレポートであれば、それ相応の量になるのが当然だし、逆に上限に対する制限が必要になるだろう。そういう方向で量の指定がされればどうだったのだろうか。
社会人になっての鍛え直し
結局、文章については社会人になってから鍛えなおされることになる。報告書の文章は真っ赤っかになって戻ってきて、一からやり直しになる。その時に教えられたのが、以下の3点。
- 主語と述語の関係を明確に
- 文章は短く
- 一文一意にする
これら3点を守れば少なくとも簡潔な文章は書ける。そして文章の構成はシンプルに、目的、分析、結論という3部構成というものを教えられる。最初はこれを意識して文章の構成と作文を心がける。今でもこれは変わらず続けている。これらを繰り返しながら、さらに最近は、意味の重複をいかになくすかが読みやすい文章を書くポイントかと特に注意して書いている。
それでもやはり読み易い文章を書くのは難しい。さらに美しさを求めるとさらに難しくなる。それは、自分が何を伝えたいかということもある一方で、読み手の立場をどこまで想定して書けるかというところもある。修飾語や接続詞の使い方も難しい。効果的に使えばメリハリの効いたポイントが頭に残る文章になるだろうし、使いすぎると冗長さが目立つようになる。
研究論文や調査報告書は、作法があるのでそれに従って書けばよい。その参考書としては以下の2冊が今でもあげられるのではないか。
最初の「理科系の作文技術」は理系の人向けに書かれた研究論文の書き方だが、社会科学系の人が読んでも十分参考になる。
こちらは上の理科系向けのものを文系向けの内容に書き直したもの。どちらも同じ著者によるものなので社会科学系の人はどちらか一冊を読めばいいだろう。
さらに美しさを求めて
一方、ブログなど特に制約のない文章はどう書いたらいいだろうか。それは今でも自分の課題だ。一つのこだわりとして「美しさ」を求めようとする時がある。美しくかつ簡潔な文章だ。それはどのようなものか?以前、編集のプロの人からワープロの普及は書き手の文章から個性を奪ったというようなことを伺ったことがある。確かに簡潔かつ分かりやすさを求めると書き手の個性は極力なくすことになる。読んで読み応えのある文章、読みづらいんだけど著者の人となりが伝わって来る文章、思わずのめり込んで読んでしまうような文章などなど個性がある文章が最近めっきり少なくなったと言っていた。
自分の求める文章は必ずしも個性的なというわけではないが、単に簡潔で読み易い文章では面白くないからそこに美しさというものを求めてみるのもいいだろうぐらいのものだ。
ググってみると色々ハウツゥーが書かれた記事が目に入る。但し、そこでの内容はアフィリエートを前提とした売らんがなのための文章の書き方・・・そういう側面からの読ませる文章で参考にはなるが面白くない。じゃあ、どうするのか?自分は今の所、自分にとっての文章の美しさというものの正体を求めてさまよっているという状況で、読者の皆さんにはすまないが、どちらかというと、勢いで書いて、書きなぐっているという感じだろうか。
これからはもう少し考えて書いていきたいと昨年ブログが復活してから考え始めているところ。こういう時代だからこそ、書くことを大切にしたいし、少しでも自分の意図を正確に伝えられるような、そして読んだ人に何かが残るような文章が書けるようになりたいと思う。
永遠の試行錯誤は続くのだ。