日本橋濱町Weblog(日々酔亭)

Quality Economic Analyses Produces Winning Markets

必要なものは続く、そうでないものは・・・

最初は必要があってはじめられるプロジェクト。どのような理由であれ、そうでないものはないであろう。そしてその必要性は継続的に続く場合もあるし、1年で終わる場合もある。
1年で終わる場合はまた違う提案・・・関連する場合もあるし、全く新しい場合もある・・・をし、そこからプロジェクトを作っていくことが始まる。
継続的なプロジェクトも少しずつ視点が変わる。それはクライアントの考えが何らかの理由で変化することから変わる場合もあるし、調査・研究対象の状況が変わる場合もあるし、対象の周りの環境が変わることによって視点が変わる場合もある。このように変わっていればそのプロジェクトはクライアントからも必要と認識され、その継続性は変わらない。この場合はクライアント、調査研究対象、その周りの環境の状況から常にプロジェクトを見直すようにする。
一方、継続的なプロジェクトでも関心が下がってしまう場合がある。継続的な取り組みであるにも関わらず・・・例えば、定点観測ものなどはそうなる可能性を秘めている。
我々にとって怖いのはこういうプロジェクトの存在だ・・・当然、このようなプロジェクトは、何もしなければ遅かれ早かれ消滅してしまうことになる。それを防ぐには、そのプロジェクトの成果が役立つことをこちらから常にアピールすることだ。その具体化はプロジェクトの性格によって程度は異なる。例えば、成果そのものを世の中にアピールすることもあるだろうし、成果を使って新たな分析を行うことによってその成果(プロジェクト)の重要性を認識してもらうことも必要だろう。そういう営みが常に必要だし、常にしていなければ、このような営みに気づいたときに突然できるものではない。
本来、必要なもので継続されるものなのに、何らかの状況でそこの関心が薄れると、クライアントも限られた予算で実施するため、どうしても切らざるを得なくなる。一からプロジェクトを作り上げていくことを考えたら、継続的に取り組ませてもらうためにも、都度、成果の重要性をアピールすることは大切なことだ。
こんなこと改めていうこともないようなことだが、間々、対応が遅れることがあるので、備忘録として書いた。
話は少々変わるが、ある定期会合も出席者が少ないことで必要なしと判断するのはどうか?ある施設の利用者が少ないからということで必要なしと判断することはどうなのだろうか。
出席者や利用者が少ないのは会合や施設側の問題ではなく、利活用する側に問題がある、あるいはその機会を提供する側に問題がある可能性はないだろうか。
例えば、自分らのことで考えてみると、本来、それらの機会を十分使いこなして、アウトプットを作っていかなければいけないのだが、インターネットという麻薬がそれを面倒くさがらせてしまう。インターネットを我々の仕事に使うことの利便性と怖さをもう少し考えた方がいいと思う。
インターネットは武器にもなるし、我々の足腰を弱めてしまうことにもなる。
よく仕事で汗をかけということがあるが、この場合はインターネットなどに頼らず、最後は自分で動いて調べるということだ。そのきっかけを作れるように定期会合があるのだろうし、施設が提供されている。それが利用されないということはどういうことだろうか。どこに原因があるかはいろいろ調べなければならないが、利用側に問題があると・・・調査研究にしろ、コンサルにしろ、インターネット上の情報だけでできたアウトプットの限界は知れている。われわれは所詮マスコミやジャーナリストには勝てない*1
最後は話がそれたが、必要のないプロジェクトなどないはずだ。しかし見かけ上そうでなくなってしまうことは間々あることなので、プロジェクトを見直すことの他に、見直しの必要がないプロジェクトについては、継続性をなくさないためにも常に成果の活用は考えておかなければならないと思う。
以上、長々と駄文を書き連ねてしまいました。

*1:彼らと我々の違いはなんなのか?そこをちゃんと認識することも大切なことだ