日本橋濱町Weblog(日々酔亭)

Quality Economic Analyses Produces Winning Markets

知識労働者の仕事も変革の時代

20世紀末から最近まで我々の生活や仕事の中で大きく変わったものといえば、コミュニケーションや情報とのかかわりに関してではなかろうか。

下記文献に収録されている梅棹の文献は、日本における情報社会論の先駆的業績として知られているのが、この論文は情報の世紀が到来したことを実感している今日、改めて問い直されてよいものであろうと思う。

4122033985 情報の文明学
梅棹 忠夫
中央公論新社 1999-04

by G-Tools

60年代の梅棹の「情報産業論」により情報というものを商売にしている人々が認識されるようになって以来、40年以上・・・世の中は大きく変わった。最近、80年代まではともすれば夢物語で終わっていた情報化に関する議論は90年代のインターネットと携帯電話の普及、21世紀にはいってからのブロードバンド化やケータイ・サービスの高度化により、現実のものとなってきている。

そのような中で情報を商売に生きている人々は今、どのような状況に直面しているだろうか。情報・知識の時代において、大学の研究者、シンクタンク・調査会社の研究者・調査員、各種アナリスト、官僚はばら色の世界を謳歌しそうなものだが、実際、そうではないようだ。

例えば、シンクタンク・調査会社はこれからの花形産業ではないかと思われるであろうが、実際はそんなに世の中優しくない。今ではパソコン機器やソフトの発達により、誰でも統計解析ができる。インターネットの発達は誰でもが世界中から情報を集めることを可能にし、さらにWeb調査の発達は多くの人が安いコストでアンケート調査を実施できるようにしてしまった。

従来は情報を収集し、それをクライアントの分かりやすいように整理し報告すれば事足りたものが、情報の時代においてはそれだけではクライアントの満足を得られなくなってしまった。その程度のことなら、ネットを使い自分でできるし、安い調査会社はいくらでもあるということになってしまったのである。

既存のシンクタンクや調査会社に今求められているものは、分析・・・つまり集めた情報にどれだけクライアントの役に立つ付加価値をつけられるかという側面なのである。

よって情報の収集にコストをかけても、分析部分が手薄だと、それは評価されないことになる。一方、情報収集にはほとんどコストをかけなくても、クライアントのニーズにそった分析がきちっと出来ていれば、それは評価されることになる(こんなこと当たり前!って思う人もいるかもしれないが、そうでもないんですよ・・・現実は^^)。

我々はかかったコストに見合った収入を得るわけではなく、アウトプットの質に見合った収入を得ているのであって、かつ、アウトプットの質は必ずしもコストとは連動していないのが現実の姿。

この感覚の違いが理解できない限り、これからの知識産業で勝ち抜いていくことは出来ないだろう。

恐らく多くの優秀な知識労働者の人は今、仕事の洪水の中でもがいているのではなかろうか。それは上記の考え方からすれば、当然の状況だといえるだろう。質のいいアウトプットは誰でも出せるものではない。そうなれば出来る人に頼らなければならないのは自然の流れ・・・当然、人材が必ずしも豊富ではないこの業界では特定の人に仕事が集中することになる。

しかし人には24時間しかないので、いずれはパンクすることになる。つまり自分の身の回りの環境は、今までのやり方に「No」と言っているということだろう。知識労働者の仕事の仕方も見直さなければ、真の情報社会には移行できないかもしれない。

しかし、その具体像がどういうものなのか・・・僕には分からない。

上記の話とは必ずしもリンクしないが、情報社会を理解する上で最近の本で重要なのは下記の佐藤俊樹の一冊だ。

406258087X ノイマンの夢・近代の欲望―情報化社会を解体する
佐藤 俊樹
講談社 1996-09

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佐藤俊樹の「ノイマンの夢・近代の欲望」では、情報化社会論そのものを解体し、その意味を問い直している。そこで主張されているのは、「技術の進歩が社会のしくみを変えるのではなく、社会の仕組みを変えようと志向することが技術の進歩に方向性を与えているのである」ということだ。

これまでの情報社会に関する議論を総括しなければならない時代になったのかもしれない。

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