日本橋濱町Weblog(日々酔亭)

Quality Economic Analyses Produces Winning Markets

実証研究は地道な作業・・・データを作るということ

データを持って何かを語ることを仕事にしている研究者には、データが大切であることは言うまでもない。そうであることは誰でも分かっているのだろうが、最近、気になることがある。最近というより、官庁統計や業界統計を中心にネット上に電子ファイルが整備、公開されるようになってからだ。

何かというと、データが電子化されていないとそれで分析をあきらめてしまうことだ。自分たちの知りたいこと、検証したいこと、予測したいことがあったとしても、それに使うデータが電子化されていないとそれであきらめてしまう。1000程度のデータ数なら手入力でも大した時間もかからず電子化できる。自分たちの経験からすれば、567×567のマトリクスデータをすべて手入力し、分析に使ったこともあった。

データがあれば、分析は可能だ。そしてそれは他者には追随させない宝となる。それを手入力しなければいけないという手間を惜しんでやらないというのはどう考えても首をかしげざるを得ない。データを入力しさえすればそれで他者と差別化できる。研究プロジェクトを得る上で非常に優位な立場に立てる。そう考えれば、研究テーマの掘り起こしから考えるよりずっと近道ではないだろうか。

関心を示すクライアントがすでにいるのに、そこを攻めなくて何を攻めるのか?

以上は仕事としての研究として考えたときのデータ投入に手間を惜しむなということだが、研究としての仕事という視点に立てば、これは、仕事の中で自分らが分析したいテーマがあり、それをやるためにはどうしても必要だった資源を仕事の中で手に入れられるということだ。データさえ入力してしまえば、他の誰にもできない自分たちだけができるオリジナルな研究ができるということだ。仕事をしながら自分たちの研究ができる・・・というわくわくした思いはないのだろうか。

データを作るということは、他者との強力な差別化手段だ。あるいは実証研究をやるものにとってまた一つ研究の資源を手に入れることでもある。ならばなぜ少しずつの時間を見つけてでもそのデータを使えるようにしようとしないのか。電子化されていないだけで、「手間がかかるから無理」となってしまうのか?データで稼げる可能性を少しでも高めることは自分たちの土俵で仕事ができる機会を増やすということだ。なぜそこを強化できる機会を与えられているのにそうしないのか。

大学院の博士課程に進むまで研究に打ち込んで、かつ仮にも研究所と名のつく企業に就職し、研究という土俵で仕事ができるのに電子化する手間だけでその機会を捨て去ろうとする思考が理解できない。そのデータはいろいろなことを語ってくれるだろう・・・未知の世界を一つでも明らかにできることになる・・・そこに楽しみは見いだせないのであろうか。

仕事は研究足りえるか、研究は仕事足りえるかという古くて新しい問題だ。